部屋の整理をしていたら、小学生の頃つけていた手帳が見つかり、作業は停滞した。
曰く、「食わん者は生きるべからず。」
2014.1.11
その下にサインの練習がしてあるところを見ると、このフレーズが浮かんだ当時からそれなりに自信があったらしい。
私は2014.1.18に中学受験をしているはずなので、試験の1週間前にこんな言葉を残しているのはなかなか興味深い。
「働かざる者食うべからず」という金言に、何かしら思うところがあってこそのこの言葉であろう。
さて、ここ一年ほど働くということについて考えていて、最近その答えが出たので、
少し聞いてもらえますか。
【なぜ人は働くのか?】
自分の周りに浮き輪みたいな色相環みたいなんがあって、
それが自分が享受したい財だとして、
しかしそれに含まれるすべて(の色)を自分で生み出すことはできないあるいは大変すぎる
奴隷という文化が無くなり少なくとも名目上人類が平等になったいま、生み出すことをだれかに押し付けて自分は享受するだけ、ということはできなくなった。
財を享受するには、自分がすべて生み出そうと頑張ってもいいが、自分が得意とすることや面白いと思うことを集中的にやってそれを人と交換する方が、つまるところ楽。
それが分業、そして労働。
AIに仕事を「奪われる」の真意がずーっとよくわからなかったのだが(やってくれるならハッピーじゃんと思ってた)、
自分が元来得意だったはずの色の部分が機械やAIにとって代わられた場合、
人と交換できる財が無いということになる。
人からもらいたい財があるのに、自分が提供できる財がない。これがAIに仕事を奪われた、という状態。
そして仕事に対してあぶれた労働人口は、エンタメに手を出す
(技術の発展が臨界点に達している(?)ため、なにか新しい技術を生み出すことより、楽しむ楽しませるエンタメに需要)
あるいは色をどんどん細かくして仕事を細分化し、
全員が少しずつ労働時間を減らすことが可能に…なるはず(希望的観測?)
母がPTAの会議に行くのを面倒がっていたので、行かなきゃいいじゃん、なんでお金ももらえないのにそんな頑張れるの?なにがモチベーションなの?と純粋な疑問で聞いたところ、「習慣だね」とか言っていたがただの惰性では休まず行けるとも思えないので、突っ込んで聞くと、「親同士の安否確認かな」と言うのでなるほどコミュニケーションの場なの?と聞いたららどうやらそれだけでも無いらしく、たしかに働いている親も多いし、ことさらに子どもの学校にコミュニティを求める必要もないように思える。何か運営に関わることを決められたりするの?と聞いたところ、「子どもたちのために何かできないかなって…ところよね」と言っていた。これが本音か?
だとしたらものすごく高尚だな……。
自分あるいは自分たちが費やした労力が子どもたちの学生生活の充実につながるのならそこに対価を求める必要もないということか。
色相環のモデルに当てはめて考えると、自分の生み出せる色を子どもに手渡しているようなイメージだろうか。これが無償の愛…。
【人はなぜ働くのか?→自分の得意や好きで、自分や周りの人を幸せにしたいから】
これね、よく言われることかもしれないし綺麗事みたいだけど、上のような思考の手順を踏んでやっとたどり着いた私なりの真実です。
とまあ、こんなことをこねこね考えていた自分には、
人生を自らハンドルし楽しまない者には生きる価値がない、
とでも言いたげな、根拠のない自信に満ち満ちたような「食わん者は生きるべからず」に、自分の初心を垣間見たような気がするのだった。
なお試験については面接の様子など簡単に書かれており、
③これだけは続けたい!
→英語とピアノ カナ⁇ 〔原文ママ〕
…とあった。
小学生女子が素でおじさん構文を使っているのもなかなか興味深い研究対象だが、英語とピアノはたしかにいまも細々と続けていることであり、有言実行というべきか、先見の明があるというべきか。褒めて遣わす。
明日はTOEIC。英語に関しては15年選手であることを今日思い出せて良かった。
それと、ノートの裏表紙に「極」という字が書かれており、周りに無数の⭐︎マークを飛ばし、画面上方には三日月を浮かばせていた。
ーーー夜空に力強く浮かぶ「極」の字。
小学生の発想力には恐れ入る。
小学生の頃詩を書くのが結構好きだったのでいくつか書き留めてあり、恥ずかしいのだが、恥ずかしさを知らぬその物言いに、なんというか、憧れてしまう21歳。
こんど、詩を読みたくなり、ゲーテ、ヘッセ、江國香織、中原中也、の詩集を図書館で借りてきた。
(図書館ダイスキ。。)
本屋も行って、装丁の気に入ったのがあれば買いたいなあ。
日記も好きだけど、短くて密度の高い言葉が昔から好きだなあと思い出す。
今日は袖がないと寒い。