間ヒロの週末丁寧連載

ズボラ連載という一言矛盾を脱し、週一の丁寧を目指しています

建築はなぜ存在できるのか

しばらくはてなを書いていなかったら、何を書く場所かわすれてしまった。

 

いまは絶賛建築史の勉強をしている。結局、なんなんだろうなと思う。勉強することに対してではない。「建築」に対してだ。

 

いろんな造形があって、保存改修の手段があって、その先に、「だから何?」が待っている。

 

私は建築が好きだけれども、好きだからだろうか、たとえば絵を見て「だから何?」とはあまり思わないのに、建築を見て「だから何?」と思うことがある。

 

教会や寺社仏閣のような祭祀空間とか、霊廟や墓地だったり、宮殿のような象徴空間は、分かるのだ。

 

ロマネスクは壁に開口をあまり開けられなかったから光と影が象徴的な空間になった。分かる。技術力が構造を決定し、空間の論理まで決定づけている。

ゴシックは神という存在を大衆に分かりやすく知らしめるための光の空間。分かる。論理が先行して、控え壁とフライングバットレス(飛梁)、ステンドグラスという技術がそれを支えた。

バロックヴェルサイユ宮殿ルイ14世太陽王権威象徴空間。分かりやすい。日本の古墳なんかもそうだ。

 

では、我々の社会における建築とは何なのか。何をもって、「良い建築」とされるのだろう。

現代人の技術力をもってすればできない造形など無いに等しいし、我々の社会の規範が金銭(神は死んだ)だと仮定して経済性だけを考えるならば全部四角い箱にすればいい。

 

ここまで書いていてふと、気づいたのだが、

なぜ私はいままで、

自分たちとルイ14世を別物として考えていたのだろう

ここ、点々をつけてホラー風に強調したい。

 

なぜ、近現代人が象徴空間としての建築を建てていないと信じ込んでいたのか。

 

それは設計者が自分自身を象徴するものかもしれないし、経済だったり、歴史的価値だったりを象徴しているのかもしれない。

我々は神を奉るわけでも己の権威を民に知らしめたいわけでもないけれど、何かしら象徴したいものがあるのではないか。

 

設計コンペがある。

それぞれが象徴したいものを持ち寄って、審査会が魅力的なものを選び取る。

 

なんだ。簡単な話だったんだ。

 

どんな小さな住宅にだって作り手がいる以上、そこには何かしら人間の論理が働いているのだ。

 

なんだ…。建築を学び始めて2年は経ったけれど、やっと建築がこの世に存在できる意味が分かった気がする。