間ヒロの週末丁寧連載

ズボラ連載という一言矛盾を脱し、週一の丁寧を目指しています

思考が介在する食事/しない食事

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集合時間以外の全ての約束を守れる女なので、宣言どおりレタスとウインナーを炒めた。

常々言っている「レタスと熱の素敵な関係」について、新しい切り口を発見した。

それは、「レタスと塩コショウの素敵な関係」である。

塩コショウは肉でも野菜でも、しなっとさせる役割があるので、結果論的にしなっとしたものと相性が良い。日々の食事を積み重ねた舌にとって、塩コショウとしなしな感は密接に結びつく。

そこには思考の余地がない。

 

しかし、若干の熱を含むもののシャキシャキを残されたレタス、そこに塩コショウを感じたとき、舌の得た情報は大脳で驚きに変わる。

要は、絶妙な違和感である。経験則からみたミスマッチと、実際の舌が感じている旨みのマッチが、ぶつかり合う時間が、そこにはある。

「レタスという食材をあたためて塩コショウをかける」、ここまでが重要なワンセットであると、やっと理解した。

 

あと、これがフライパンパターンで、レンジでも同じことをしたのだが、全く問題なかった。ただウインナーをレンジであたためるのってなんだか抵抗がある。弾けそうなのもあるし、なんというか、、絵面的に貧しい感じがする。匂いが強いからかな?

匂いが強いもの×レンジ=貧しい、というこの感覚、共感を得られるのだろうか。

 

 

ところで、集合時間が本当に守れなくて、移動距離とか準備時間とかを全く考慮に入れることがこの世で一番苦手である。

この向きは小学生の頃からあったので一生直らんかもしれん。みんなごめん。どれだけ走って行っても小学校の門扉は必ず半分以上閉まっていたし、小学生の時通ってた塾も「出席とってる時間が無駄」とか言って毎回5分くらい遅刻して行ってたなあ…。なまじ成績が良かったからか全く怒られなかったが、その甘やかしが今の私を形作っている。(参考資料:『責任転嫁大全』間ヒロ・著)

 

今とっている大学のとある授業でも、始業すぐに出席をとるフェーズがあるらしいのだが、最近までその事実を知らなかった。いまだに呼ばれたことがない。今学期が終わるまであと3回も無いが、1回くらいは出欠確認に間に合いたい。という、煎じに煎じて薄くなってしまった願望。この味が完全に消えてしまった時が、私の社会不適合性が完成する時である。

 

だけどこの前遅刻で最悪の失敗をしてから、やばい!寝過ぎた!と顔面蒼白で飛び起きることを体が覚えた。

そしてたいてい、そういうときに限って全く寝過ぎていない。

 

"人間が想像できることは、人間が必ず実現できる"が座右の銘の私だが、遅刻魔としての自分に悩まされていない自分を想像することができない。

5分前行動とかさ。早めに出勤してたりとか。無いな、無さそう。想像できない。

…こんな後ろ向きな使い方でジュールヴェルヌの名言を引用している人っているんだろうか。

ちなみにジュールヴェルヌの作品はそんなに好きじゃ無い。(ええ……)

 

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具材バカデカシチューを作った。(どんよりしてきたので無理矢理場面転換、無理矢理場面転換って漢字の多さ楽しすぎかよ 在りし日の平成女児としては「夜露死苦‼︎」みたいな良さに痺れる部分があるのかもしれない。)

 

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これと比べてもらえれば、人参の異常な大きさが分かるだろうか。

シチューから人参の直径が見えていることって、なかなか無い。

実はブロッコリーのクリームスープを作ろうとして台所に立ったのだが、気づいたらコンソメスープになっていた。台所が寒くてさっさと作りたくなっちゃって。小麦とかチーズとか、いろいろめんどくさくて。コンソメは偉大である。

 

最近奈良で買ったこの器ばかり使っている。これを迎え入れる前は、姫路で買ったのを使っていたのだが、あれはもう過去のモノになってしまった。あんなに気に入っていたのに。

私は愛国心ならぬ愛星心が強く、地球を汚す浪費からは遠くありたいと常々ねがっているが、結局、骨の髄のところは消費社会の住人である。ダメだねえ。